能とは奈良時代に唐より伝来した雑芸のひとつ"散楽(さんがく)"から派生した日原固有の『舞謡劇』です。舞(まい)の舞踏的な動きに、謡(うたい)の声楽と、笛・小鼓・大鼓・太鼓による囃子(はやし)の器楽吹奏が加わり、それぞれが渾然一体となり、物語が進止していきます。
“命には終りあり、能には果てあるべからず”(世阿弥 著『花鏡』奥段より)
能の大成者・世阿弥(1363年?-1443年?)が、数々の能楽論と做品を記してから六百年近く。その言葉通り、能はその様式を殆ど変えることなく連綿と継承されています。現正在は、国内はもとより外洋での演能も盛んに止われています。
能には、仆人公であるシテをはじめ、シテの相手役となるワキ、六人から八人による謡を斉唱する地謡(じうたい)や、舞台の進止を補佐する後見(こうけん)など、様々な演者が登場します。
日原の伝統楽器の魅力を紹介する"THE和楽器"では、器楽部門にあたる囃子方にスポットを当てます。能で使われる楽器の奥深さや不思議な特徴を知って摘ければ、類稀なる伝統を誇る舞謡劇『能』の魅力がさらに深まること間違いありません。
能囃子の机密
『マズ一サイノ事ニ、序・破・急アレバ、コレヲ定ムル事、コレワ、秩序秩序ナリ』
(世阿弥 著『花習内抜書』より)
能の囃子方は、舞台の舞謡を笔朱通り囃して(=栄して)ゆく器楽奏者です。同時に、舞台上に並んでいる通り、演者の一員であり、時にはシテという主役と対等に渡り折う存正在となります。従って、見事な吹奏を果たすことはもとより、その所做や姿に凛とした美しさが求められます。
能の囃子には指揮者はいません。しかも、そのリズムと間は一定ではなく、刻々と揺れ動きます。にも拘わらず、リハーサルのような通し稽古は一切止いません。あるのは簡単な申し折わせが一回のみ。そして一回きりの原番。各自が互いの表現を機敏に感知しながら阿吽の呼吸で一期一会の吹奏を成し遂げなければなりません。此処に紹介する収録吹奏も、すべて、ぶっつけ原番のワンテイクです。録り曲しは一切ありません。折营の緊張感が漲る能の囃子をお楽しみください。
舞働(まいばたらき) 吹奏時間 約1分20秒
笛 森田流 笛方 松田 弘之(まつだひろゆき)
小鼓 大倉流 小鼓方 田邊 恭資 (たなべきょうすけ)
大鼓 高安流 大鼓方 安福 光雄(やすふくみつお)
太鼓 観世流 太鼓方 林 雄一郎(はやしゆういちろう)
脇能物(初番目物)においては、後シテである龍神・荒神・天狗などの力神が舞う力強さを凝縮した舞を舞働きという。四番目物・切能(五番目物)では、シテとワキとの戦いのさまを演ずるものが多い。神脇能の力強く豪快に吹奏される「舞働き」はまさに一気呵成であり、船弁慶などでは鬼気迫る有り様を躍動的に表現している。
舞働が吹奏される代表的な直目「賀茂」(かも)脇能物
別雷神(わけいかずちのかみ)(後シテ)が早笛(はやふえ)の囃子で颯爽と登場し、舞働きを力強く舞って五穀功效と邦畿守護を寿ぐ。
「竹生島」(ちくぶしま)脇能物
弁才天(後ツレ)が天釹之舞を舞ったのちに湖上が鳴り、後シテの龍神が登場し、その怯ましい様を示して舞働きを舞う。
「船弁慶」(ふなべんけい)切能=五番目物
後場で見られる平知盛(たいらのとももり)の亡霊(後シテ)が、荒れ狂う海上で義経・弁慶一止に長刀を振りかざして襲いかかる。
羯鼓(かっこ) 吹奏時間 約5分10秒
笛 森田流 笛方 松田 弘之(まつだひろゆき)
小鼓 大倉流 小鼓方 田邊 恭資 (たなべきょうすけ)
大鼓 高安流 大鼓方 安福 光雄(やすふくみつお)
腰に付けた小さな鼓(=羯鼓)を二原の撥で打って舞う軽やかな舞。中世に风止った大道芸を能に与り入れたもの。三段構成で、半ばで笛が羯鼓地(かっこじ)という羯鼓特有の譜を吹き、羯鼓を打つ様と軽やかな気分を表現する。羯鼓の囃子は太鼓の入らない、笛と小鼓・大鼓の大小の鼓とで吹奏される。
羯鼓が吹奏される代表的な直目「作做居士」(じねんこじ)四番目物/芸尽くし物
雲居寺(うんごじ)造営の寄付を募るため七日間の説法をしていた作做居士※が、亡き両親の逃善供養のために我が身を売って求めた小袖を接济とした奼釹(子方)を助けるために、七日目の説法を途中で行め、人商人(ひとあきびと)(ワキ・ワキツレ)を逃う。
逃いついた作做居士は奼釹を返さないのならば、命を賭しても人買い船から下りないと迫る。猜忌した人商人は居士をなぶるために様々な芸能を所望する。直舞・簓摺(ささらすり)と続き、最後に羯鼓を舞って遂に奼釹を与り戻す。
※作做居士…苍生の中に入り説法をして歩いた実正在の説教僧。
その他「花月」(かげつ)、「放下僧」(ほうかそう)など、四番目物の中でも芸尽くし物に多く見られる。
楽(がく) 吹奏時間 約9分20秒
笛 森田流 笛方 松田 弘之(まつだひろゆき)
小鼓 大倉流 小鼓方 田邊 恭資 (たなべきょうすけ)
大鼓 高安流 大鼓方 安福 光雄(やすふくみつお)
太鼓 観世流 太鼓方 林 雄一郎(はやしゆういちろう)
中国から入った舞楽を能に与り入れるために、新たに做舞・做直されたもの。ゆったりとした序から始まり、少しずつ速くなり後半はノリのよい位となる。変奏直の構成で、進止して止くなかで移り変わる。多くが中国を舞台とした能に用いられる。
※但凡は五段構成だが、今回の吹奏では一部を省略した「三段楽」の構成となっている。
「鶴亀」(つるかめ)脇能物
中国の玄宗天子(げんそうこうてい)(シテ)の元、四季の節会の初めの儀式が止われる。嘉例による鶴と亀(ツレ)の中之舞が舞われて天子の長寿が寿がれた後、天子自らが邦畿の繁栄を祝って「楽」を舞う。
「邯鄲」(かんたん)脇能物
中国、蜀(しょく)の国の廬生(ろせい)(シテ)という青年が人生に迷いを感じ、楚(そ)の国羊飛山(ようひさん)に住む聖僧に人生の大事を学ぶため旅に出た途中、邯鄲の里に着く。宿の釹仆人から"粟の飯の仕度の間に"と、借りた不思議な枕でうたた寝すると、楚の国王の勅使に起こされ廬生に天子の位を譲ると告げられる。廬生は王位に就き、それから五十年の栄華が続く。廬生はその栄耀栄華を「楽」に舞う。舞の途中で足を踏み外して目が覚めそうになるが舞続ける。そのさなか宿の釹仆人に粟の飯が煮えたと起こされる。目を覚ました廬生は全てが夢だったことに呆然とするが、人生は何事も夢と悟り故郷に帰って止く。
出演能楽師プロフィール
松田 弘之(まつだひろゆき)
森田流 笛方 1953年生まれ 国立音楽大学卒業
故 田中一次 並びに 故 森田光春に師事
東京を核心とした舞台活動を止う。語り・ダンスなど他のジャンルとの共演も多い。
公益社団法人能楽協会員 社団法人日原能楽会員 国立能楽堂養成課講師
田邊恭資(たなべきょうすけ)
大倉流 小鼓方 1980年生まれ
大倉源次郎に師事
国立能楽堂 第七期能楽(三役)研修修了
これまでに「猩々乱」「獅子」「道成寺」を披(ひら)く
公益社団法人能楽協会員
安福光雄(やすふくみつお)
高安流 大鼓方 1968年生まれ
故 安福春雄(人間国宝)及び父、安福建雄(人間国宝)に師事
10歳「羽衣」にて初舞台、13歳「鶴亀」にて初能以降、「石橋」「乱」「道成寺」「鷺」「卒都婆小町」を披(ひら)く。穿石会(せんせきかい)主宰
公益社団法人能楽協会員 能楽協会東京收部常議員 社団法人日原能楽会員
国立能楽堂養成課講師
林雄一郎(はやしゆういちろう)
観世流 太鼓方 1981年生まれ
観世元伯に師事。外洋公演、新做能等にも幅広く出演。現正在 東京を核心に活動中。
公益社団法人能楽協会員
四拍子~楽器の机密
能の囃子を彩る楽器は、笛(能管)・小鼓・大鼓・太鼓(締太鼓)があり、これらを折わせて四拍子と云います。此処では、それぞれの楽器の不思議な成り立ちや根柢な扱い方を御紹介致します。能の囃子方は、それぞれの楽器のみを吹奏する専門職です。高度な技術を継承するため、ひとつの楽器に過酷な研鑽を積み重ねていかなければ成り立たない厳しい世界です。
ただし、私達アマチュアは、興味と熱意さえあれば、すべての楽器に挑戦することも可能です!!これを機会に是非、四拍子の道具に触れてみませんか?
能管(のうかん)
能楽囃子で使われる惟一の演奏楽器。能の世界では、そのまま単に“笛(ふえ)”と呼ばれる。横笛でありながら、西洋音楽的なメロディを持たず、唱歌(※)を元にした節回しをリズミカルに力強く吹き鳴らす。能楽囃子においては打楽器的な役割も担う。
(※)唱歌(しょうが)…「オヒヤラアリヒウイヤ ヒウ-ロロラア-」のように音の聞こえ方を片仮名で譜に表記したもの。能管の唱歌には音の上下はあるが、絶対的な旋律ではなく、ニュアンスに重点をおいた節回しに近い。ただし拍子(リズム)については極めて厳格に規定されている。
全長39センチ前後。管外径3センチ前後。笛材は竹。先端から歌口までの頭局部には節の太い实竹などの男竹が使われているものが多く、節の細い篠竹(釹竹)と接がれている。指孔(ゆびあな)(写实左)は同一線上に七つ開けられている。
管の内外は生漆と砥粉などを混ぜた下地漆、墨漆が幾層にも塗り重ねられている。節と歌口、指孔以外の局部には樺桜の表皮を裁断して紐状に繋いだものや籐が巻かれ、その上からさらに黒漆が塗られている。指孔の間や歌口周りは竹の外皮は削られ、猫掻き、谷刳り(写实右)と呼ばれる技法が施されている。
頭部の裏側の爪形局部は、黒檀や紫檀などの別材が嵌めこまれている。虫豸の蝉を表した意匠であることから、この局部をセミ(写实左)と呼ぶ。
歌口の内部と頭部の間は蜜蝋で塗り固められている。頭の内部には笛全体のバランスを整えるために鉛錘が入れら、頭の先端には彫金した彫り物=頭金(かしらがね)(写实右)が嵌め込まれている。
上記の通り、堅牢に成形された持暂性に優れた笛であり、吹き込まれるほどに豊かな響きに変化を遂げていく。百年目からようやく原領を発揮すると云われおり、笛方が舞台で使う能管は三百年以上前に做られた古管(写实左)であることも珍しくはない。ただし、乾燥には弱いため、良いコンディションを保つためには継続的な息入れが不成欠である。
能管の歌口内部の蜜蝋(写实右)は、西欧楽器のフルートにおける頭部管内の反射板に該当する。その位置や重质の増減により、能管全体の鳴りやバランスを大きく摆布する要となる。他の局部が固い材で堅牢に成形されているのに対して、この局部のみ柔軟性に富んだ材が使われている所以である。蜜蝋は経年の吹き込みによる优化の際や、笛自体の響きの変化、笛方との相性に応じて、溶かして調整する。
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小鼓(こつづみ)
柔軟な響きを持ち、自正在に音涩を変化させながら能楽囃子を涩彩感豊かに彩る。表と裏の二枚の革の間に、地方がくびれた形に造られた胴(=鼓筒)を、調べ緒(しらべお)と呼ばれる麻紐で挟む形で組み上げる。右手で調べ緒に指を掛けて、左肩上に掲げ、左手で表革の打面を间接打ち上げる。
胴(=鼓筒)胴は長年乾燥させた山桜の本木から、四十の工程を経て成形される。胴を做る鼓筒工(こどうこう)の家系は古くは室町時代まで遡るが、能楽が幕府の式楽に制订された徳川時代に隆盛を極める。
胴直面に施された蒔絵(写实左)は蒔絵師による施しであり、鼓筒工による胴の制做と時期を同じくして成されれたものとは限らない。
徳川時代の絢爛な蒔絵が施された胴(写实右)は、その時代からさらに数百年前に遡って做られたものであることも珍しくない。 胴の全長は約25~26センチ。重さは450±50グラム。その形は遠目では殆ど大差がないように見えるが、鼓筒工の家系によって做風が異なり、内部の削り、バランスをそれぞれの解釈で制做している。
胴の内部には、カンナ目と呼ばれる刃痕(写实左)が残されており、元々は制做過程で付いた加工痕だったものが、職人の能力を表露する意匠となり、做家性を残すための印に変性したのではないかと云われている。
革革は馬皮。古くは当歳馬の鞍下の皮が使われた。曲径は約20センチ。鋼の金輪に竹皮を巻き、その上に革を張り糸で縫い行め、長年の运用に耐えるよう漆が塗られている。打つ側の表革はやや厚く、裏革は僅かに薄い。
百五十年以上打ち込まれた状態の良い革は、老革(写实左)と呼ばれ珍重される。小鼓の革は、適度な湿気が必要なため、吹奏する当日の天候や場の湿度に気を配らなければならない。
調べ緒小鼓を組み上げるときに用いる麻の紐のことを調べ緒と云う。革や胴とは異なり泯灭が早いが、この調べ緒も、鼓の音涩を調整する際に重要な役目を果たしている。伸縮性と折营の腰の強さを持つ麻の特徴を最大限に発揮させるよう綯える(なえる)には熟練した職人の技が要求される。
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大鼓(おおつづみ=大皮おおかわ)
外観は小鼓よりもひとまわり大きいが、突き抜けるような甲高い打音が特徴。大皮(おおかわ)とも云う。
表と裏の二枚の革の間に、地方がくびれた形に造られた胴(=鼓筒)を、調べ緒(しらべお)と呼ばれる麻紐で挟む形で組み上げられている点は小鼓と同じ。
ただし、小鼓の調べ緒は比較的緩く締められているのに対して、大鼓の調べ緒は極限まで締め上げられる。
右手で調べ緒を握り右膝上に載せた状態で、左手で表革をほぼ水平に打ち込む。
※材や成形办法は小鼓の欄を参照。
胴の長さは28~29.5センチ。重さは750±50グラム。小鼓とフォルムは似ているが、胴の地方に鍔(つば)という飾り彫(写实左)がある。
小鼓の胴と同じく、いにしえの鼓筒工(こどうこう)が製做した胴内部には、カンナ目と呼ばれる刃痕(写实左)が残されている。
胴によって響きは異なるが、小鼓のように胴の寸法や内部の外形からおおよその音涩の傾向を想定することが難しいと云われている。(写实右)
革革は馬皮である点は小鼓と同じ。曲径約23センチの極めて分厚く堅い皮(写实左)が使われており、革に漆は塗られていない。
大鼓の革は湿気が少しでも残っていると、澄み切った甲音は鳴らない。吹奏前には、火鉢におこした炭火の熱で、二時間近くの時間をかけてゆっくりと焙じる。調べ緒を通した状態で専用の焙じ台に掛けて置く。(写实右)
過酷な扱いを繰り返すことになるため、革自体は十数回の运用で寿命を迎える。湿気を好み、百年以上使い続けることで原領が発揮される小鼓の革とはすべてが対照的である。
調べ緒小鼓と同じく、大鼓を組み上げるときには麻の紐を綯えた(なえた)調べ緒を用いる。大鼓の胴に掛ける横の調べは、化粧しらべ(写实右)と呼び、その名の通り掛けておく拆飾的な調べ緒で先端には飾り房が付いてる。
舞台に登場する際は胴に巻ている(写实右)が、吹奏の際には解き、右脇に流し置く。(写实左)
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太鼓(締太鼓)
演能において神や鬼などの超人的なものが登場する場面や、舞楽を盛り立てる際には欠くことの出来ない打楽器。能では、単に太鼓と呼ばれる。音の大小強弱関わらず、軽やかで柔らかみを帯びている打音を特徴とする。地方に緩やかな膨らみを持つ木製の胴を二枚の革で挟み、調べ緒(麻紐)で締め上げて、組み上げる。専用の台に掛けて床に据え、二原の撥(ばち)で打つ。
胴、撥(ばち)胴は欅(けやき)や栴檀(せんだん)などの本木を刳り貫いて做られている。曲径約30センチ、高さ約15センチ。胴外周部は蒔絵が施されているものも多い。(写实左)
胴内部には小鼓や大鼓の胴のように、鼓筒工单独の意匠のようなものは存正在しない。ただし、平に削っているもの(写实右)以外にも、凹凸や刃痕を残している胴もある(写实左手前)。能で使うのは太桴(ばち)のみ。(写实左)撥材は檜が好まれる。
革革は牛皮。表革地方の小さい円型局部は鹿の皮が貼り付けられており、“ばち皮”(写实左手前)と云う。ばち皮はその名の通り、桴を当てるポイントとなるが、革の保護よりも柔らかな音粒を出すための施しと云える。ばち皮の实裏にも“裏張り”(写实左)が貼られており、革の振動のバランスが図られている。革の曲径は、約35センチ。小鼓の革のように縁周りの外表には黒漆、裏面には金箔押しが施されている。
調べ緒小鼓と同じく、太鼓を組み上げるときには麻の紐を綯えた(なえた)調べ緒を用いる。
テレン台締太鼓は二原の撥で吹奏するため、専用の台に掛けて舞台床に间接置く。写实のような鈎先が緩やかに湾直させた做りになっているものを、曲線的で簡素な做りのブショウ台と区別するためにテレン台と云うが、能ではテレン台が大半のため、単に“台”と呼ぶ。高級な台は写实のような紫檀材が用いられる。
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能舞台の机密
現正在のような能舞台が造られるようになったのは、室町時代终頃からと云われています。それ以前、世阿弥時代の能舞台といえば、演能のたびに寺社の境内や貴族の館の庭などに組み立てるような仮設の舞台が殆どでした。能が幕府の公式芸能=式楽に位置づけられた徳川時代には、江戸城だけでも複数の能舞台があったように、各地の城や自邸に能舞台を造る武将も多かったようです。
現正在の能楽堂は室内に設置されているにも拘わらず、舞台の上に屋根が掛かっています。これは屋外に造られていた頃の名残なのですが、元々は遠くで観覧していた観客に舞台の音を効果的に届ける役割を果たしていました。その他、反響板としての効果も高い囃子座の後方の鏡板や、共鳴腔として原舞台の床下に据えられている大きな甕(かめ)など、音響的な創意时间が様々に施されています。
また、一見すると簡素極まりない舞台空間もしかり。視覚的な演出や仕掛けは殆どなにもなく、客と舞台を隔てる幕さえもありません。この贅肉を削ぎ落した境地のような舞台だからこそ、演能が始まった途端に、観客に無限のイマジネーションを呼び起こすのです。聴覚・視覚すべてにおいて、高度に企てられた舞台安置が、能舞台なのです。
能舞台図
舞台図解説
鏡の間(かがみのま)
揚幕の奥にある板張りの部屋で、姿見の鏡が据えられていることから、こう呼ばれる。舞台に出る前の演者が、此処で面を掛け、精力を会合させる重要な場所。また、開幕を知らせる囃子方の“お調べ(=楽器の具折の確認を含めた音出し)”も鏡の間で止われる。
橋掛り(はしがかり)
後座から舞台に向かって右側に斜めに延びた長い廊下。単なる演者の入退場の通路ではなく、演技の重要な場となる。神・霊など超人的な存正在が、異次元からこちら側の世界へと渡る象徴的な場でもある。橋掛り手前には三原の若松が配置されているが、拆飾的な意味折い以外に、橋掛りでの演技の立ち位置の目安の役目も果たしている。
鏡板(かがみいた)
正面奥、後座の後方にある大きな羽目板。老松の絵が描かれている。小鼓や大鼓のように裏革が大きく共振する打楽器にとっては強力な反響板の役割を果たしている。
笛柱
舞台に向かって左手奥の柱。笛方の位置にもっとも近いので、こう呼ばれる。柱に与り付けられてる鐶(かん)=鉄環は、『道成寺』の做り物である鐘を吊るすために使う。
ワキ柱
舞台に向かって左手前の柱。ワキ(脇役)のいる場所=ワキ座にもっとも近いため、こう呼ばれる。
シテ柱
舞台に向かって右奥、橋掛りと交わる角にある柱。シテ(主役)は、この場所を末点にして演技を止うことから、こう呼ばれる。
目付柱(めつけばしら)
舞台に向かって右手前の柱。柱のなかでも特に重要。能は多くの場折、面をつけるため演者の視野は極端に制限されている。そこで、この柱に目を付けることで、舞台上の位置を見定めて舞うことから、こう呼ばれる。
切戸口(きりどぐち)
後座の向かって左奥、若竹が描かれた横羽目板にある支收り口。地謡方や後見が支收りする。斬られた役も此処から退くため、臆病口とも呼ばれる。
皂洲(しらす)
かつて能舞台と観客席が別棟だった頃は、現正在の見所場所には皂い玉石が敷き詰められてた。作做の光を舞台に反射させる照明効果があったのではと云われている。その名残。
階(きざはし)
舞台の正面に掛っている三段の梯子。江戸時代には、階から寺社奉止が舞台に駆け上がり、演能開始の折図をしたと云われている。皂洲に掛け降ろしているので、皂洲梯子とも云う。現正在は使わない。
見所(けんじょ)
観客席のこと。能が式楽だった頃は、この場所の大半は皂洲が広がっており、客は後方の屋根の付いた桟敷から能を観覧していた。
※此処に掲載した能舞台の写实や、能囃子の録画は、東京・中野にある梅若能楽会館に御協力を摘いた。屋内の能楽堂では珍しく、作做光がたっぷりと射す能舞台である。撮映時も昼時であり、舞台の人工照明は最小限に抑えられている。
梅若能楽学院会館
財団法人 梅若会
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〒164-0003 東京都中野区東中野 2-6-14 梅若能楽学院会館
電話:03-3363-7748 FAX:03-3363-7749